コンテンツやサービスの将来のあり方に関する個人的な雑感

「共通価値」の新しいステップへ

多くの人は車を購入するけど、そのほとんどの人が真に求めているのは車そのものではなく、移動手段としての車だということ。


お金という仕組みを作る前の人間は、自分の必要なものと相手の必要なものの物々交換とかでやりとりしていたらしい。
相手へ何かを奉仕することで、自分にない物を得る。
これは人間が社会を形成する上で基本になる仕組みだと思う。
コミュニケーションや人間関係の形成にも言えることだ。


生きるために必要最低限なモノだけを得るなら物々交換だけでもやっていけるかもしれないけど、文化が形成されていくうちにあらゆるサービスが生まれていき経済が成り立った。
そこでお金という共通価値が発明されて、物を買ったりサービスを受けらるようになる。


それから人の生活はどんどん複雑化していって、やがて銀行というシステムが出来、信用と取引から成り立つ「負債としてのお金」をやりくりして生活する時代になった。さらにそのほとんどは通信を通じてデータでやり取りされる。


人類の発展の中で、そろそろ次のステップに進むことができる時期なんじゃないかな。
物質的なお金という存在はますます薄れていく中で、「その人の価値」に直結した新しい共通価値が生まれるべきだと思う。
(或いは、そういう価値を管理しお金を分配できるシステムが)


「その人の価値」とは何だろう?

ひとりひとりの価値ってなんだろう?と考えてみる。
人の価値というのは他人がいなければ存在しえない、他人から評価されてはじめて生まれるものだ。


つまり他人や、もっと広く、社会への貢献度によって得られるものじゃないかなーと。


例えば、インターネットで見かける「他人を評価するシステム」にはものすごく強い将来性を感じる。
いわゆるカルマっていうのかな、その人の行動が、多くの人が望むことならばそれは社会への貢献度が高いと言える。


そうして得た評価は、その人の新しい行動に使われて循環する。
あらゆる"経験"を得ることに関する対価を支払うと良いんじゃないかな。

例えば、音楽を聴くということに関して

例えば音楽を聴くために、そのコンテンツを購入する理由は「曲の歌詞や音楽性が好きだから」もしくは「アーティストを応援したい・アイデンティティとして」などであって、曲というコンテンツを所有すること自体は、それほど価値がない。
(物理的なメディアとしての曲ではなく、音楽そのものを言ってるので、コレクションとしての価値はまた別)


CDやテープが出来る前は、奏者がいなければ曲を聴くことが出来なかった。
つまり、ある人の曲を聴くためにはどこかへ行かなければならないし、奏者を呼ぶしかない。
曲を聴くたびに、それなりの対価の支払いが必要だった。
ところが録音再生機器が出来ることで曲を聴く手段を手近に置くことが出来た。
そこでは奏者に対する支払いを、「コンテンツの購入」によって一括で支払っていたのだけど、システム的にそうするしかなかったから「コンテンツの料金」として一括で払っているだけで、これは公平ではない。
1回だけ聴く人も、100回聴く人も対価の支払いが同じって、どうなんだろう。


情報化が発達した今(そしてこの先)こそ、お金という共通価値が成り立ったころを見直して、消費者が真に求めているものを提供するということを考えてみる。
そうするとやはり細かな行動(経験)に対して対価を支払う、というようなシステムがいいんじゃないかなー。
とにかくコンテンツそのものに価値があるなんて幻想は捨てるべき。コンテンツを守るためにお金は必要だけど、順序が逆になってしまってはだめだ。

そんなわけで・・・

だいぶ話がそれてしまった。。
そんなわけで、一人一人の細かな行動(経験)に対して対価を支払うというシステムがあれば、みんなが幸せになるんじゃないかなと思う。


他にも、ボランティアだって全くの無償でやるのはちょっとおかしい。ボランティアに参加した人は何らかの形でやはり評価されるべきでしょう。人の性は悪だ。


そうやってひとりひとりに目が向けられるようになれば各々は積極的な行動に出るようになるし、善の連鎖が起こり、もっては社会全体の発達を助けるだろう。


だらだらと大風呂敷を広げたわけだけど・・・

国際的規模で新しいシステムを今すぐ作るべき!とか言いたいわけではない。
何者でもない若者の夢物語に過ぎないしね。

・・・

でも、近年のシステムと技術の発達でこれに近い考え方を少しずつ個々のサービスに取り入れていけるんじゃないかなあと思ってる。例えばコンピュータ。

人は物としてのコンピュータを求めているんじゃなくて、その処理能力やストレージなんかを求めているんだから、それをいかに効率的に供給するかと考えてみる。
ソフトウェアやOSとネットワークが発達すればユーザーインターフェイス以外のほとんどをサーバーサイドに置くことが出来る。
そうすれば、処理能力やストレージを提供するプロバイダは各々に合わせたサービスを柔軟に提供することが出来る。


大量にストレージが欲しいなら、追加購入を申請するだけで増やせるし、ソフトを使いたいならインストールをせずに使いたい期間だけ購入することが出来る。
処理能力が欲しいなら、一時的にスーパーコンピュータ並の処理能力をも扱える。
といったように。


・・・


何でこんなことを書いたかって、ニコニコ動画でMAD動画が削除されているという話がこの思考に拍車を掛けた。
購入済み、もしくは正規の方法で視聴済みの映像を元に作られたMADなら視聴可能というシステムってとても理にかなってると思うんだよね。


MADの成り立ちを見ても、テープを切り貼りしたモノを仲間内で見せ合ってたらしいけど
そこにいる仲間はもちろん全員元ソースを知っているだろうし、熟知しているような熱狂的なファンしかいなかっただろうと思う。


番組を見るのはもちろん何らかの対価が必要。そして一度視聴しているなら、
それを編集したものを見てもいいし、作ってみてもいいという感じ。
二次創作者は、それによって何らかの対価を得る。


だって、タダで色んなことが出来すぎる今のインターネットってちょっとおかしい。
今のインターネットは広告事業で成り立っているようだけど、それって今の社会のシステムのスキをついてるに過ぎないと思っていて、健全とはやはり思えない。

微量のお金を支払うことにハードルが高すぎるから、無料と10円には大きな壁がある。
この壁を破るには何らかの新しい仕組みが必要だなと考えて、思いついたのがこの新たな通貨としての評価システムといったところかなあ。


何をするにも対価がいるって、まるでオンラインゲームの世界みたいだけど、それは、ゲーム内の世界を完璧に管理できるシステムが構築可能だからできることであって、
高度な技術によって現実社会でも管理が行き届くようになれば、オンラインゲームの世界みたいになっていくんじゃないかな。
単純な投げ銭をシステム化するだけじゃ成り立たない、評価と時間を対価に、それらを自動的かつ合理的に分配しなければいけない。


問題は、あらゆる行動に消費が伴うことで結果的に文化が衰退しかねないということだ。
まだまだこの先考える余地はありそう。


我ながらめちゃめちゃな文章書いてるなあとは思うけど、実際頭の中でもうまくまとまってないので。
50年先にでも読み返してニヤニヤしたいですね。つっこみとかもらえると嬉しいです。